ライチョウギャラリー
霊鳥・神の使者 雷鳥に魅せられ
ライチョウとの出会い
「ライチョウを撮れば」の友人の何げなにげない一言が、私の生き方を決定することになった。
私がカメラに興味を持つようになったのは、旅行で京都へ出掛けた小学4年生の時である。その際いろいろな写真を撮ったのがきっかけとなり、野鳥を写せるだろうかと試みたこともあった。しかし、いかに鳥に近づくかということが撮影上の最大の困難である。中学すの頃まで使っていたカメラはコンパクトカメラであり、鳥を大きく写すには無理がある。そうは簡単に撮れるものではないのであった。
しかし、結局はその難しさが写真にのめりこんでゆくきっかけとなった。必然的に一眼レフカメラへと関心は移っていき、高枚生活は写三味の日々となった。ほとんどが野鳥写真である。「ライチョウを撮れば・・・」高校性の頃だったが、ライチョウは高山にのみ生息する鳥である。山登りなどやったことのなかった私にが、何かしら興味を引かれるものがあり、未知の鳥への関心は高まっていった。
1985年8月4日、晴れ。ザックの中にカメラだけを入れて、一人で山へと向かう。生まれて初めて山登りに挑戦することになった記念すべき、かつ重要な日。いまだ見たこともないそのライチョウという鳥を撮りたい一心で、私はしゃにむに尾根を登ったものだ。
その時の私は、初めて体験するアルプスの大自然に、人生観までも変えられてしまうくらいの感動の中に酔いしれた。自然の営みと生命の力強い息吹を全身に感じ取っていた。空気きえあたかも生きているかのような異次元。
そんな空間に、突如ライチョウの親子は現れたのだった。雲上の大自然にひとりぼっちで感動しているところにライチョウの登場である。感動にまた感動が重なり、カメラを持つ手はブルブル震えてカメラのホールディングが上手く出来なかったことを、今なおはっきりと覚えている。
今思うと不思議なもので、私にとって生まれて初めてのこの夏山登山で、しかもこの広大な立山の山塊で、いとも簡単にライチョワの親子に遭遇してしまった。しかもこの場所は、以後彼らの撮影のためのベストポイントとなったのである。
立山を歩き尽くした現在の私でさえ、ライチョウという鳥は見つけることが困難な時もある。この日のことを思い出すたびに、ライチョウとの何やら運命的なものを感じないではいられない。
ただその時彼らを見て驚いたのは、人間に対してほとんど無関心であることだ。自分たちの営みを私の足許で見せる。その堂々とした落ち着きに気高ささえ感じたものだった。
初めて出会ったその時から、その生きる舞台とその生命力から、私が彼らの中に「神聖なるもの」を感じるようになったのは、ごく自然なことだったのだろう。以降、私は山を登り続け、ライチョウを撮り続けることになる。
神秘の鳥を撮るために
1987年夏、ライチョウを撮り始めて3年目を迎えていた。しかしその頃の私が撮るライチョウの写真はなぜかアップばかりになってしまい、その画面からは、初めて出会った時のような感動などまったく感じられず、私自身さえ写真を撮るという行為に感動はなくなっているように思えた。
それまで様々な野鳥を撮ってきたのだが、なかなか思うような写真が撮れずにいた。そんな頃にライチョウとの出会いがあった。しかしやはりライチョウにおいても自分の満足するような写真は撮れずにいたのである。
そこで今度はタンチョウに目を移し、その年末に北海道まで撮影に出掛けることにした。北海道のタンチョウは前年の末にも一度撮影に出掛けていたため、これなら改めて新鮮な目で、理想と思える写真が撮れるかもしれないという期待にも似た思いもあったのだ。 そうして出かけたタンチョウのいる現場で、非常に重要なことに気づいた。
それは私と、私の周囲にいたカメラマンの人たちとでは、シャッターチャンスが異なっているということだった。つまり私は動きのない場面を撮り、周りの人たちは動きのある生態写真として撮っているということである。この事実に気づいたことで、前途が明るくなったように感じた。
そしてまた出会った人の中には、写真展を開催し、写真集も刊行する予定だという人もいた。そうだった、これだ!実のところ、私はカメラ三味の高校時代から、自分の写真集を出すというのが漢然とした夢だったのだ。ここでふいに夢が蘇ったのである。そしてその夢を叶えるのは、ライチョウしかなかった。
自分で納得できるまでひたすらがんばって、ライチョウの四季の生態写真を撮り続けようと決心し、北海道から帰りさっそく計画に取り掛かった。
ところが、いきなりひとつの問題に直面した。それは、ライチョウを撮るために必要な情報記事が載っているガイドブックや、お手本となる写真すらほとんどなかったということである。そこで私はとりあえず、生息場所の細かなデータや詳しい生態を知るために、図書館で調べることにした。だが、さらに困ったことに図書館の文献は実に古いものばかりだった。最新のデータや写真を求めていた私は大いに弱った。
江戸時代の文献によく現れる雷鳥伝説は、歴史の勉強になるかもしれないが、これらから生態を知ることはとてもではないが無理である。そのため、あちらこちらの図書館でライチョウと名のつく文献を片っ幅から読みあさり、頭のなかで彼らの生態をつなぎあわせ、おぼろげながらも把握していく事が出来た。そんな中でライチョウの神秘性というものを認識していくことになったが、謎もつぎつぎに湧いて出て来た。ただ、そうした困難は計画の妨げにはならなかった。逆に「それならば自分がライチョウの全生態を写真にまとめてやろうではないか」という意欲が湧いてきた。もちろんこの作業には時間がかかることはわかっており、今後一切ライチョウ以外は撮らずこれ一本に全力投球することにした。
85年に初めて立山で出会ったあの時の感動を伝えたかったのと、何とか写真によりいのちと大自然の大切さというものを多くの人々に強くアピールできないか、と私の願いは燃え上っていった。そして、撮影10年をひとつの区切りに発表したい、と・・・
それにしても私は子供の頃から勉強がとにかく大嫌いで、学習というのはとかく面倒で頭が痛くなるものだと決めつけていた。そんな
私が、図書館へ行き、文献を探し、読みあさっているというのは、いくら写真のためとはいえ我ながら不思議ではあった。それともうひとつ不思議だったのは、ライチョウに関することなら実によく頭に入っていくということだった。ともあれ私はライチョウに魅せられ、のめりこんでいった。
登山の前にはこのように図書館で「予習」し、実際に山に登り自分の目で観察し、下山してからは観察した内容をノートに記録する。そこでまた文献を読んで「復習」する。そうした丹念な作業の縦り返しから、ライチョウの生態が実によく見えてきた。当たり前のことだが、「予習と復習」の効果に改めて感心しながら、私は目標の達成を目指していった。
私の書く観察ノートも、ひたすら記録を続けるうちに大切な文献のひとつとなってゆき、この学習と撮影は切り離せないものとなっていった。
この間の撮影は、文献により調べた生態を実際に自分の眼で確認し、裏付けを取りながら、分からないところは観察を続けることにより解決していった。こうして観察、撮影を記録するフィールドノートの活用により正確を期した。
文献で得た全生態の写真撮影を最低限の目標として山に登ったが、一部達成できないものもあった。しかし文献では得られない珍しい行動の発見もいくつかあった。